2016年6月19日日曜日

【ゼン・ヒラノ演技訓練】

<ゼン・ヒラノ演技訓練>
五感の記憶
『聴覚』

僕にとって五感の記憶、聴覚を説明するのがとても難しい。この2週間あまり机に向かってなんとか説明しようと焦っているが、壁にぶっつかって行ったり来たりしている。
僕自身、小さい時から中耳炎を患っていて、父親が夜中に僕を背負って病院に駆け込んだ記憶がある。今では、補聴器なしに生活できないが、補聴器のある時代に生まれてラッキーだとも思っている。四六時中、耳の奥でゴーと言う音が絶え間なくしていて、これを海鳴りの音だと思うと楽しくもあり、この音に集中することによって瞑想に役立っている。
昔、僕の友人に音の記憶に非常に敏感な人がいた。誰々の声を思い出してみてというと、2,3秒首を傾げたと思うとその人の声色をそっくり真似て喋り始めて周囲の人々を驚かせた。次から次へとである。
と言うわけで、五感の記憶、聴覚は、各自、自分のアプローチを見つけて貰おう。他人に聞き回らないで自分で自分のアプローチを見つける。創造の喜びは結果ではなく、アプローチにあると云われるから。
椅子にゆったりと体重を預け心と体のリラックスに時間をかけて耳の奥深くなにが聞こえてくるか静かに注意を向けてみよう。
あなたは親しい人、両親や好きな人の声や話し方を思い出せるだろうか?
海鳴りや、雷鳴、鳥のさえずり、虫の鳴き声、お祭りの笛や太鼓そして花火等々。
好きな歌、想い出の歌等々。
もし、何時でも、どこでも思い出せれば、想像の世界の扉を開ける鍵を手にしたことになる。
人間はその人が見たもの聞いたもの、体験したものは全て記憶されていると言われる。問題はその記憶されたものを引き出せるかどうかだ。椅子にゆったりと体重を預けて 耳の奥深くに秘められた声に、音に耳を傾けてみよう。
何回も指摘しているように、出来ても出来なくてもいい、何が起きるか見てみようと言う態度が必要
ZEN

☆河口湖スタジオにおいて
ゼン・ヒラノによるプライベートレッスンを行います。
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【ゼン・ヒラノ演技ノート(番外編)】


ゼン・ヒラノ演技ノート(番外編)「僕は松葉杖をついた天使に出会った。」


僕は、松葉杖をついた天使に出会った。
彼女は八四才、西に病の人の求めあれば、大きなリックを背負いカバンを斜交いにかけ、両手の松葉杖で不自由な脚を庇いながら夜行バスに乗る。絶えず穏やかな笑顔をたたえて。東に求めの声あれば又、松葉杖を携えて東の夜行バスに乗る。
彼女はマッサージ師である。常に笑みを浮かべて疲れた様子を見せた事がない。
淡々と注意深く人の心と体の疲れを揉みほぐしていく。
彼女の悠久の大河の流れを想わせる態度に時間は存在しないように思えた。
今回、僕は部屋に横たわり、庭を見ながら彼女の治療を受けていた。
庭の木が風で美しく揺れ動いている。僕は心と体が緩んでいき、静かな時間が流れているのを感じていた。・・・・・・
暫くして、理由もなく目頭が熱くなり僕の目から涙が流れてきた。
何でこんなに感傷的になったのか訝しげに思った。
それから、しばらくして、このおぼろげな想いが何なのかはっきりして来た。
僕の背の後ろで人間の形をした天使が黙々と仕事をしている。
それは天使だ、彼女は天使だ!紛れも無く天使だ!と確信した。
喜びとも愛おしさとも言えない涙が、止めどなく静かに溢れて来た。
(こんなに泣いたのは、30年前に恩師が他界した時以来だ。)

僕の部屋に天使がいる!

ふと思った。我々は、いつも、 おおぜいの天使に出会っているのに気づかないのかもしれない。
そうこう想いにふけっているうちに、別の感情がやってきた。
すまない、もったいないないという思いだ。その思いに満たされて又、涙が溢れて来た。
僕のような凡庸な人間に天使は、かかづりあうべきではないと。
世のため、人の為に命まで投げ出した偉大な人 達がこの世には、大勢いる。
ガンジー、キング牧師、マリア テレサ、リンカーン 、そして、 ご高齢なのに身体の不自由を押して被災地に駆けつける天皇陛下と美智子妃殿下。又、野球の練習は絶対に見せなかったのに、脳梗塞を患って、同じ病の人々を勇気づける為にリハビリを公開している長嶋選手等々、数え上げたらきりがない。
天使達よ!僕のまわりでウロウロするな。
これらの偉大な人々のところに翔んで行って、彼らの心と体の疲れを癒して欲しいと。
またして、ふと気がついた。これら偉大な人達はみんな天使かも知れないと・・・・

庭に夕陽が傾いていた。      
松葉杖をついた僕の天使よ!
有難う。とても、愛しています。ZEN

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ゼン・ヒラノ演技ノート第16話

ゼン・ヒラノ演技ノート第16話
俳優の仕事 は感動を伝える仕事。

人間の心の奥深く住む天使を羽ばたかせ、これから語る物語の主人公の体験を全うし表現できる俳優は、世界に何人いるだろうか?
今回は、趣旨を変えて、東京クラスのぼくのスタッフであり、冠婚葬祭のナレーションの仕事をしている女性アスカの体験談を紹介することにします。(以下転載)
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ゼン先生へ
先程はお電話をありがとうございました。
それでは早速、先週お話した内容をメールにて送信させていただきます。

幼な子の死
それから月日が流れ、また新たに子供の葬儀の仕事が私のところに舞い込んできた。
それは映画・ドラマを飛びぬけて、これぞリアルな世界と心底に思わせ、一生忘れられない感動を私の中に刻み込んだ。
今、思い出しても涙があふれてくる。
その子は更に年齢が低くなり、まだ歩くこともできない赤ちゃんであった。
今回は病死であり、喪主夫妻はまた前回と違った様子を見せた。
朝、式場に入ると驚いた。
人の心を柔らかな笑顔にさせてしまう程のかわいらしさとあどけなさに包まれた赤ちゃんの顔写真がポスターほどの大きさに引き伸ばされ、それぞれ額に入り、足をつけ、5枚ほど半円を描くように置かれていた。その生きている写真に囲まれて、中央には遺体が収められた棺が安置されており、まるで天使と悪魔が共存しているかのようであった。それでも死を悼む部屋は、その悲しみを忘れさせるかのように温かな愛に包まれ、悪魔の存在を打ち消し、天使達が部屋中を遊びまわっているかのようであった。その天使のかわいらしさに胸を打たれ、足を踏み入れた瞬間に私の目には大きな粒の涙があふれ出てきた。
更に式場内を見れば、その棺に周りには親族が椅子を並べ、中を覗き込み、静かな涙を流しながら、次々に遺体の顔に触れていた。後にその遺体を見た時にわかったのだが、その顔はすやすやと眠っているとしか思えず、また人の心を吸い込む力を持ち、ずっと見ていても全く飽きさせず、人の顔を自然に笑顔にさせてしまう力を持っていた。だから親族が棺の周りでいつまでもいつまでも覗き込み見守っている気持ちが理解できた。できればこのまま保存をできたら…と思ってしまう程にかわいらしい寝顔であった。

やがてその部屋にその赤ちゃんの両親・喪主夫妻が入ってきた。
若き父親と着付けを終えた喪服姿の若き母親。
二人ともスレンダーで美男美女だった。特に母親は美しさに満ち溢れていた。しかしその美しさと正反対に一番の悲しみを抱き、一番の不幸を抱えている人だった。子供を失うということほど、辛いものはない。ましてや一緒にすごした時間があまりにも短すぎる。出産し、その喜びの中にいなくてはならないのにもかかわらず、今はあろうことか、もう永遠の別れに心を砕かれている。それを想うと、ただ同情という言葉では言い表すことのできない気持ちになる。

しかし私はその強い悲しみの中にいる人と打ち合わせというものをしなくてはならない。お話をするだけならまだしも、形式的なことを聞き、更にその悲しみに追い討ちをかけることになるかもしれないことを聞き出さなくてはならない。緊張と不安に体と心を震わせながらも、まずはその父親である喪主と打ち合わせをした。こういう場合、男親の方が幾分、話を進めやすい。そこで式進行にかかわることを聞き出し、やがて本題に入っていき、その赤ちゃんの紹介・ナレーションを入れるための材料を求めた。すると「そのことはやはり妻の方が…」と言われ、意を決して、今にも壊れそうな薄いガラスでできた母親に声をかけた。

その時、その不幸な若き母親は棺の横に立ち、棺の中に手を入れ、赤ちゃんの顔に触れていた。私が声をかけると、振り向き、顔を向けた。

驚いた。あまりにも美しい笑顔だった。最大の不幸を抱えている人とは思えない、正に『天女の笑み』であるかのように見えた。私はその場ですぐに場所を移動するのではなく、立ち話になってしまうが、その笑顔を奪うのではなく、そのまま笑顔の中でお話を伺うことにした。するとその母親は私の質問にずっと笑顔で答え、まるでわが子は亡くなっているのではなく、生きていますと言っているかのようであった。

その美しい笑顔は私の胸に深く焼きついた。
通常ドラマや映画の世界では涙を流し、半狂乱を描きがちである。
しかし現実は違った! 
その現実は私の心を奪うものであった。
そしてこの現実のドラマはさらに感動的な展開を見せる。

それは火葬場での出来事である。
静寂のうちに告別式を終えた後、この遺族・親族に心を尽くすべく、火葬場への同行までの仕事を指示され、親族とマイクロバスに同乗して行った。

到着すると、まず棺を火葬場の台車へと運び、火夫により遺族親族は焼くための釜の前へと案内されていった。私は火葬中の待合室の準備などをするため、その場を一旦離れた。しかし、初めて行った場所、またやり方も他の火葬場と違っており、戸惑うことが多く、それでも準備を終え、釜前に行くと、いよいよ棺が釜の中に入れられる時を迎えていた。
その時それまで一切泣き叫ぶことがなかった若き母は突然ところかまわず叫びだした。葬儀の式中も焼香の際も静かに涙を流す程度で、一切声を出すことのなかった人が、わが子を、わが子の名前を呼ぶ声を体中から絞り出し始めた。その声は大きく、それまで静寂の中にいた広い空間で駆け回った。何度も何度も叫ぶその声は、最後のわが子への呼びかけであるようでもある。それでも火夫は、その母の断末魔のような声を背中に受けながらも棺を釜の中にゆっくりと押し入れていく。するとその若き母は更に声を荒げ、わが子の名前を叫び続ける。

『お願い。やめて!! その中に入れないで!!』
心の中での叫びが文字として見えてくる。

それでも火夫は止めることはしない。するとその若き母親はいよいよ釜の中へと投じようと身を乗り出し始めた。その行動に対して、その場にいる全ての人が若き母親の気持ちを理解し、反論するものは誰一人としていなかった。しかしその行動は止めるしかない。そのためその若い母親の両親が二人で娘の体に手を回し、死のトンネルから必死に生の世界へと導く。それでもその若き母の体は子供が運ばれていく暗いトンネルの中に向かう。それを更に体で押さえ込もうとするその両親の目には大粒の涙が大量に流れていた。それを見ていた私の胸は震え、今思い出しただけでも、両の目から涙が溢れ出す。

そして、火夫は下された仕事を全うした。しかしその火夫の背中にも涙が流れていた。
やがてその釜に火が点火され、燃える轟音がかすかに聞こえ始めた。

そのあと、私は涙をそっとぬぐい、静かに声をかけ、遺族・親族を控え室へと案内する。その控え室は狭く、30脚ほどのイスに長テーブルが二列に並び、その上にはお菓子類など一切置かれていなかった。その準備をしたのは私である。あろうことか、私はその火葬場への同行の仕事の内容をしっかりと把握できておらず、またお金が絡んでくるために、飲み物やお菓子類はその喪主夫妻に選んでいただくことにしたのだった。そして売店まで案内すると、先程まで泣き叫んでいた若き母はテキパキと人をもてなすための心を発揮し、次々に飲食物を選んでいく。私は自分のふがいなさに情けなくなった。

約1時間の待ち時間の中では、その不幸な若き母親は自分が置かれた状況を忘れたかのように、親族をもてなし、声をかけていた。その行動力に更に驚かされると共に、敬服し、心の中まで美しさに覆われている人であると感じた。

そして収骨の時を迎える。
ほんの1時間ほど前に釜に向かって泣き叫んだ母。さて、この後収骨の時はどうなってしまうのだろうかと気がかりを抱きながらも、収骨室へと案内した。そしてあとのことは火夫に任せ、私は待合室への後片付けに行った。そのため収骨には一切立ち合ってはいない。そこで不幸な若い両親が、そして親族がどのような状態であったのか、まったくわからない。ただ自分の仕事を終えた私は、収骨室の扉の前で、親族が出てくるのを待った。すると、突然その扉は開かれ、中から遺族・親族が、喪主夫妻を先頭にして、出てきた。

この時、またしても心の奥底から驚かされた。
あの泣き叫んだ若き母親の顔には、幸せに満たされた天女の笑みが輝きを戻していたのである。そして遺骨を抱きながら、
「私のところに戻ってきた〜。戻ってきたよ〜。」
と何度も何度も言いながら、心から喜んでいる。そこに不幸な母の顔はない。まるで宝物を手に入れたかのようである。わが子供をしっかり抱いているようである。しかし手にしているのはわが子の骨であり、重くて硬い骨壷なのである。そのギャップに、見ている側は胸を打たれ、言葉を失いながらも、その美しい天女様に、笑顔を返すしかなかった。

そして式場に戻るためにバスに案内をして、私も同乗をする。
移動の間、その若き母は遺骨となった骨壷のわが子を抱きながらずっと話しかけていた。
車屋を見かけては「ブー・ブーだよ」
公園近くに来れば「水上公園だよ。前に約束したよね。今度一緒に行こうね」

それは本当に生きている子供に話しかけているようであり、そこには涙は一切なかった。涙を流していたのは、その周りの者達であり、特にその若き母の母は、娘の不憫さを思い、孫との別れに泣き腫らした目に追い討ちをかけるかのように辛い涙を流していた。

今、思い出しても胸が詰まる。涙なくしては語れない話である。
この葬儀は予想を次々に裏切り、現実の世界は想像を上回る美しさと感動を呼ぶことを私に教えてくれた。

あの赤ちゃんの遺体と思えない可愛くてあどけない寝顔と若き母の美しい笑顔は私の心の中から消え去ることはない。アスカ

注)先週のクラスで 一人一人に、自分のこれ迄の人生で深く感動した体験をみんなに語って貰うことにした。自分の体験した、深く心に残る感動を人に伝えられなかったら、ましてや、俳優として、台本に書かれた役の感動を伝えるのは、無理だからである。アスカの体験談の発表は全ての生徒の涙を溢れさせた。ZEN

《ゼン・ヒラノ直接指導 プライベートレッスン》
定員 2名のみ
期間 月2回 (隔週置き) 3ヶ月間 計6回 
時間 12:00から16:00まで
        曜日は本人の希望を考慮して決めます。
場所 河口湖 ゼン・ヒラノ スタジオ
料金 36万円 (分割可能)

2016年6月17日金曜日

【ゼンヒラノ演技ノート】第15話 - その3 -


*第15話ーその3ー*エクササイズ『五感の記憶   味と匂いの具体的なアプローチ』


先ずは、リラックス (体重を椅子に預けて身体を常に緩めて、ずらして、広げる)をやりながら指先に強い味、匂いのするもの(レモン、梅干し、くさやの干物等)を指先で持ち、大きさ、重さ、感触等を確かめながらか頭を遠くにどけ、指先で考えるようにする。

舌も、鼻もリラックスさせユックリと対象物を舌に、鼻に近づけ味や匂いを舌や鼻で思い出す。

これを何回も繰り返して行う。

注意すべきことは、常に体のリラックスを心掛けること。出来させようとしないこと。

五感の記憶のエクササイズは出来させろうとすると出来ない。出来ても、出来なくてもいいやと云う態度を取ること。

何かを感じたら胸に響く感情の乗りやすい楽な声を出す。

スタジオの一二を争う有名な女優の言葉が耳に残っている。

「ゼン、良い物は向こうからやってくるんだよ。」

ZEN

⭐ゼンヒラノによるプライベートレッスン⭐
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2016年6月15日水曜日

【ゼンヒラノ演技ノート】第15話- その2 -

*第15話ーその2ー*エクササイズ NO,5 『 五感の記憶 ー味と匂いー』

味覚と臭覚には個人差があると言われる。

一流の料理人には、何年もまえの味を覚えてると言うし、ワインの品評会では、どこの国の、どこの産地の、何年物のワインだと言い当てると言う。

味とか匂いは感情と結びついていて美味しいものを食べれば、人は幸せに成る。

(映画「バヴェットの晩餐」をぜひみてほしい。主役がすばらし演技をしているし、反目していた村人達が最高のフランス料理を食べることで仲良くなっていく。)

現場で実際に美味しいもの、暖かいものなど出てこない。たとえ出てきたにしても、アートにならない。自分の味覚と臭覚の経験を通せばプレイの要求に従って、どんなレベルの反応も表現も可能となる。つまりアートになる。

友人に臭覚が敏感で、どんな匂いも即鼻で思い出せる人がいる。
ある匂いは自分を幸せにするし、別の匂いは自分を惨めにする。匂いの記憶を使うことによって自分の気分をいつでも、 何処でも変えることができる。

自分の持つ五感の記憶のうち、得意分野を大いに活用すればいい。
生徒の一人が撮影で、キャンプでの鳥の丸焼きのシーンで、本当に食べたくなってすばらし演技が出来たと言っていたが、相手役がどうの、カメラの角度が、ライトがどうのと云われて10回も撮り直しさせられたらすっかり食欲を失ったと言っていた。

演技で大切なことは、二つ。
信じることと、信じたものを繰り返す能力である。
五感の記憶は、想像の世界を自分にとって現実とすることが出来、行き当たりばったりでなく、確実に繰り返すことができる。


ZEN

ー次回はそのアプローチについてー


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【ゼンヒラノ演技ノート】第15話- その1-

*第15話ーその1ー*
『俳優の表現力について』


以前にも書いたと思うけど演技術には二種類あって、役に起きたことを声と身体を使って説明する方法と、役に起こった事を体験して即、声と体で表現する方法がある。

体験の演技には固有の表現の大きな問題がある。

自分では情感が溢れ、涙が溢れるほど良い演技をしたと思って舞台を降りて見ると、仲間や観客は冷やかだったりすることがある。一体、何が起きたのだろう?

それは、感情が体や声を通して表現されなかったのだ。我々はこの表現体である体を楽器と呼ぶ。

ピアノで言えば、誰がどのようなタッチで鍵盤を叩いても(たとえあなたが素人でも)あなたの押したエネルギーの強弱とタッチのスピードに応えて正確な音を出す。そのように調律されているからである。人間とゆう楽器は感じたものが、あるがままに表現されるように調律されていない。

子供は別として、社会生活に適応する為に感情を抑えたり、オーバーに表現したり感じてもいないのに、感じた振りをする。こんな事を言ったらまずいなと思った瞬間、自動的にブレーキがかかる。

で、俳優の表現の訓練は、どんな感情もブレーキをかけないであるがままに表現できるよう調律することだ。
((ブレーキをかける訓練は不必要、長い社会生活で訓練されたお陰で、かけたい時にはいつでも必要に応じてかけられる。)

子供のもつ感受性を含めて俳優の訓練は、子供になる訓練だと言われる。

子供は今、笑ってたと思えば次の瞬間泣き出したり、駆け出したりと、衝動と表現の間に時間差がない。

トップクラスのある俳優達は、何を考え、何を感じているか即、伝わってくる。

天性の素質もあるだろうが、彼らに共通していることは、リラックスが良い。つまり、感情があるがままに表現されるよう調律されている。
リラックスが良いと、心に起きた衝動が、からだのいかなる部分(緊張)にも邪魔されないで、眼に現れる。

よって、俳優の表現力の訓練は、体に住みついているあらゆる緊張を追い出して感情が眼に、表情に、そして声に表れるようにすることだ。

リラックスの訓練は、まず、自分の体のどの部分に緊張があるか見つける。
(僕の場合永年の経験で、その生徒の前に立つと彼の緊張がぼくの体に伝わってきて,彼の体のどの部分が緊張しているかを教えてくれる。)
その部分を大きくユックリと緩まるように動かして、リラックスさせ、緩んだか、どうかチェックする。

特別の才能も見られないが、なかなか良い演技をしているなと見える時は、リラックスが良いことが多い。

ZEN

5,6,7章 リラックスの項を参照のこと。

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2016年6月13日月曜日

【ゼンヒラノ演技ノート】第14話 - その2 -

<ゼンヒラノ演技ノート>
*第14話ーその2ー*
『エクササイズ・太陽』

日常の生活でもリラックスに敏感になるといい。
肩を怒らせていないか?
眉間に皺をよせていないか?
腰に力みがないか?
奥歯を噛み締めていないか?
息を停めていないか?
チェックしてみよう。
リラックスすれば、今抱えている人生の問題も何とかなるさとと言う気になるかもしれない。
今迄何とかならない問題は一つもなかった。今生きているのだから。
名案が浮かぶかもしれないし、名案なんてどっちでもいいやと思うかもしれない。
リラックスした体の一点に、例えば左の頬を僅かに動かしながら陽射しの暖かさを肌で思い出してみよう。
全体重を椅子に預け酔いつぶれた時のように、だらしなく、無責任に出来ても出来なくてもいいやと言う態度で軽い関心をもって肌に注意を向ける。

五感の記憶は一生懸命にやると余分なエネルギーを送って成立しない。
まあ、この程度感じられればいいやと思ったら、他の一点、例えば、右のこめかみに移る。そして次の一点と体全体に広げて行く。
陽の当たらない場所で日光浴。
何かを感じたら胸に響く声を出す。感じたことは全て表現に移す。
だいたいこのエクササイズは15分から30分出来ればいい、
いつも、生徒を目の前にして思うのだが、人を教える必要はない。
全ては本人が知っている。
全てはDNAのなかにプログラムされている。知っていることを知らないだけだ。教師の役目は怒ったり、笑わせたり、誉めたりして各自が持っている可能性を、素晴らしさを、尊厳を知らしめる仕事だと思っている。
ZEN
(一粒の種は大木になることを教わる必要はない。全てインプットされている。ただ、刺激が必要だ。太陽や、雨や、大地の栄養が。)
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【ゼンヒラノ演技ノート】第14話- その1-

<ゼンヒラノ演技ノート>
*第14話ーその1ー*
この10数年来毎日、BSテレビの映画を10本以上録画して、
そのうち2,3本を選んで観つづけている。
良い演技とはなにか?
トップクラスの演技の共通点とは?
観客の心情に訴える演技とは?
才能とは?
正しい演技をするためにはどんな訓練方法が必要なのか?
俳優達に良い演技と悪い演技の見分け方を身につけさせるには?
等々、答えを求めて。
まず、日本の俳優の殆んどが、人が普段話すように話せない。
セリフを読んでいるという印象を与える。
(俳優は考えられれば生きられる。このことに関しては、別の機会に話題にしたいと思っています。)
多分、日本人の特質で、伝統的に、形に対する素晴らしいセンスをもっているので(神社仏閣、昔の生活用品にいたるまで)どうしても形に頼る傾向があると思う。
しかし、形から入るとリアリティーを入れにくいと云われる。
歌舞伎には驚嘆すべき美しい型がある。その形の創始者は、自己の深い感動を表現し得る偉大なフォームを探し求め、それを舞台に実現することができた。
その形のあまりの美しさに、形だけが独り歩きをし、何百年と受け継がれて来たのだと思う。
ある日ある時、創始者の残したあの形に、感動を入れ得た人が現れる。人々は、その人を名人と讃え呼ぶ。
ストラスバーグが来日した時に、
「自分は伝統を見たいのではなく、伝統が生かされる瞬間を見たいのだ」
と言っていた。
西洋はホームを求め、東洋はリアリティーを求める。
ZEN

2016年6月1日水曜日

ゼン・ヒラノ演技ノート13話

ゼン・ヒラノ演技ノート13話
俳優の表現力、楽器について。

前回の俳優の表現力について、もう一歩踏み込んで考えて見たいと思う。
演技は非常に芸術に成りにくい。
何故かと言うと音楽や絵画では、表現のために使われる素材そのものが美しい。
ピアノと云う楽器を例に取れば、既に、調律されていて誰が弾いてもそのピアニストの指のエネルギーとタッチを正確に反映して美しい音を出し、美的に構成されたリズム、メロディーに従って表現されていく。
たとえ嫉妬心や怒りを表現する場合でも調律れた音を使って美的に表現される。
自分の外にある楽器を使って自由に表現される。
つまり、ピアニストと楽器は別々に存在する。

一方、俳優はその体に演奏者と楽器が一緒に住んでいる。
日常生活で使っている声、からだ、言葉、思考、感情等美的素材で無いものがアートの表現材料になる。俳優は、がさつな感情を表現するのに、ピアノと違って、がさつな声を使う。
又、人間は、社会生活に適応するための訓練を長々受けて、俳優に必要なあるがまま、感ずるがままを表現すると云う訓練を受けていない。
人間と云う楽器は調律されていないので時と場合に従って勝手な音をだす。
つまり嘘をつく。嫌いなのに好きそうな顔をしたり、退屈なのに興味深い顔をしたり、パニック状態なのに平静を装う。

そこで、俳優と云う楽器は、喜怒哀楽をあるがままに、感じるがままに表現出来るように、訓練し直さなければならない。(紋切りの演技は別として)
俳優になる訓練は子供になる訓練だと言われる所以である。子供は今、笑っていたと思ったら、泣いたり怒ったり、物を投げたり感じたことを表すのに時間差が無い。
それには、俳優は体のあらゆる部分をリラックスさせて感情、思考、衝動が体のどこにも邪魔されることなく自然のコースを通って眼に、表情に、体に表現されるよう訓練する必要がある。
ある俳優が素晴らしく豊かな情動や想像力を持っていたにしても、この調律されていない楽器のせいで観客に感動を伝えることが出来ないでいる。

ここで断っておくが、歌舞伎や能などはスタイルの演技であって、情動が自然のコースを通るのではなく、与えられたホームのなかでリアリティーを表現することを要求される。

トップクラスの俳優を観察してみよう。
彼等の感情は体の抵抗を受けずに眼に流れ込む。
眼は魂の窓。魂が眼の色を変える。良い俳優かどうかは眼を見ればわかる。
よって、

俳優訓練の最重要課題は、リラックスを習得することである。

では、感情をコントロール出来なくなるのではと、心配する人もあるかもしれないが、
人は、社会でブレーキをかけることをさんざんやらされてきた。ブレーキをかける達人である。いつでも、どこでも必要に応じてブレーキをかけられる。したがって、ブレーキをかける訓練は不必要。
俳優に必要なのは、衝動に従う訓練すなはちブレーキをかけない訓練だ。
ZEN

《ゼン・ヒラノ直接指導 プライベートレッスン》
定員 2名のみ
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